ウエスタン
Once Upon A Time In The West(伊=米・68)
監督 / セルジオ・レオーネ
製作 / フルヴィオ・モルセラ
原案 / セルジオ・レオーネ、ダリオ・アルジェント、ベルナルド・ベルトルッチ
脚本 / セルジオ・レオーネ、セルジオ・ドナティ
撮影 / トニーノ・デリ・コリ
音楽 / エンニオ・モリコーネ
出演 / チャールス・ブロンソン、ヘンリー・フォンダ、ジェイソン・ロバーツ@
原題名は英語では"Once Upon A Time in the West"「かつて西部で」だが、オリジナルのイタリア語題名は少し違っていて「かつて西部があった」。西部劇でやりたかったことは全部やり尽くしてしまったレオーネ監督が、プロデューサーの意向には逆らえずに最後にもう1本撮ったという、このジャンルへの決別を告げた究極の西部劇。題名が表しているとおり、もはやドル3部作の主人公のような超絶的なヒーローは登場せずに、あえていえば主人公はかつて存在した西部の大地、あるいは開拓時代の空気であり、個人の思いを踏みにじって非情にも流れていく とうとうたる時の流れのダイナミズムである。舞台は開拓時代末期の西部。鉄道敷設予定地に土地を持つ未亡人、彼女を殺そうとする鉄道会社に雇われた殺し屋、その殺し屋を付け狙い結果的に彼女を守る男、さらに彼女に惚れてしまったならず者が、モザイク模様のようにドラマを織り成していく。時の流れに抗いながらも結局いやおうなく流されていく男たちの哀感が、ゆうゆうとしたテンポで詩情豊かに描かれる。3人の男のうち2人は死に、最後の1人も静かに町を去る。残るのはクラウディア・カルディナーレ演じる未亡人一人。これは最後の西部の男たちへの鎮魂歌であると同時に、男がヒーローでいられた時代への挽歌と言えるかも知れない。原作には、のちに『ラストエンペラー』など名作を生むベルナルト・ベルトルッチとホラー映画の巨匠となるダリオ・アルジェントが加わっており、彼らの影響を作品中に見つけるのも楽しい。圧倒的な映像美には、「ビスコンティが西部劇を撮ったらこうなっただろう」という評価もある。マカロニの一方の雄コルブッチなどとは行き方が異なるものの、これもまたいかにもイタリア的な西部劇の頂点であった。(蛇足ながら、「フェリーニが西部劇を撮ったらこうなっただろう」といわれる作品が『エル・トポ』である。)B級アクションの胡散臭い魅力がマカロニにだという信念を持つ人には期待ハズレだろうが、熱心なレオーネファンの多い欧米ではこの『ウエスタン』をレオーネ映画の最高傑作として挙げる人が多い。男泣き映画が大好きな映画バカには是非見て欲しい1本だ。
(TEXT BY スコットマリー)
A
断言する。これはブロンソン映画である。
西部劇ファンからは「マカロニだから….」と蔑まれ、マカロニ・ファンからも「もはやマカロニではない」と無視されるこの作品。いくつかあるブロンソンHPでも扱っていない場合が多い。ブロンソンを大きく取り上げているファン必携本「マグナム・アクション映画列伝」ですら、フィルモグラフィにこの映画を載せていない。しかしそれでも断言する。これぞブロンソン映画である。まだワキ役専門だったブロンソンは配役順位4位。ヒゲもまだない。しかしながら実はブロンソン度は満開、ファンならば必見の作品なのである。
ブロンソンが演じるキャラがいい。
ヘンリー・フォンダ扮する殺し屋をつけ狙い、結果的に若き未亡人を助けることになる混血のガンマンだ。自らを一切語らず「語るべき時にはハーモニカを吹く」。しかしたとえ語らずとも顔に刻まれた皺の一本一本が、この男の歩んできた人生が尋常ではないイバラの道であったに違いないということを無言のうちに示している。なぜならブロンソンだからだ! 最後の最後にすべてが解き明かされるのだが、ハーモニカと呼ばれる名無しのガンマンは、今にして思えばブロンソン以外では考えられないほどピッタリの配役であった。それもそのはず、監督のセルジオ・レオーネはブロンソンのその「顔」にほれ抜き、『荒野の用心棒』の時から再三出演を依頼し、それがやっと実現したのだ。いわば最初からブロンソンのために撮られたような映画。ぴったりなのは当然といえば当然である。なぜならブロンソンだからだ!
映画のラストがいい。
鉄道が来た。町ができる。しかし安住とは無縁の人生を歩み幾多の戦いと修羅場をくぐり抜けてきた男には、今さら自分がカタギの生活になど戻れはしないことはわかっている。殺し屋を倒しはしたが、しょせん自分もアウトロー。かくして男は、ひょっとしたらありえたかも知れない平穏な未来に背を向けて、ふたたび一人荒野へと去って行く。「いつかまた来て」と言う未亡人に対して、遠い目をしながらボツリと一言"Someday"と答える男。もはや自分自身は夢を見ることすらできない男。その男が、亡夫の夢を引き継いで西部の地でたくましく生きて行こうとする未亡人を見つめる目はかぎりなくやさしい。そしてかぎりなく哀しい。「いつか」と答えながらもおそらく男は2度と帰ってはこないであろうということは、見ている我々にもわかるし、そして未亡人にもわかるのだ。なぜならブロンソンだからだ!
ハーモニカとともに未亡人を守ることになるもう1人の無法者、ジェイソン・ロバーズが演じるシャイアンも実はけっこういい。「友情」だとか「仁義」などというありきたりな言葉は一切口にしないが、この2人の男がお互いに一目置いて認め合っているのはよくわかる。ラストシーン、傷を負い瀕死のシャイアンだが、それを見守るハーモニカは安易ななぐさめなどは口にしない。「死ぬところを見られたくねえ」というシャイアンは別れの言葉すらないまま一人逝く。言葉はいらないのだ。なぜならブロンソンだからだ!「あんたはおフクロを思わせる」とかなんとか未亡人を口説いておきながら、それが無理だとわかると今度は「おれもあいつ(ハーモニカ)もあんたにはふさわしくはない。あんたはきっともっと幸せになるよ」などとカッコつけて、どさくさにまぎれて尻にタッチまでしてしまうシャイアンはそれはそれで愛すべき無法者ではあった。しかしそんな口説きもカッコつけもなく、ましてや尻タッチなどするはずもないハーモニカはひたすらしぶい。しぶすぎる。なぜならブロンソンだからだ!
クラウディア・カルデイナーレ演じる未亡人の名前がジルだというのが、また実にいい。言うまでもなくブロンソン夫人と同じ名前。後に数々の作品で夫婦共演を果たす2人だが、ちょうどこの作品のころは新婚ホヤホヤ。女主人公の名前をジルにしたのは、出演依頼を蹴りつづけたブロンソンのOKを今度こそ得るためのセルジオ・レオーネ監督の心憎い作戦だったのか、それとも夫婦共演はかなわないものの、せめて名前だけでも新妻を登場させたかったブロンソンの要望によるものだったのか、それはわからない。わからないけれども、そんなことはどっちでもいい。なぜならブロンソンだからだ! とにかく断言する。これはブロンソン映画である!(TEXT BY オライリー)