狼よさらば
Death Wish(米・74)
監督 / マイケル・ウィナー
製作 / ハル・ランダース、ボビー・ロバーツ
製作総指揮 / ディノ・デ・ラウレンティス
原作 / ブライアン・ガーフィールド
脚本 / ウェンデル・メイズ
撮影 / アーサー・オーニッツ
音楽 / ハービー・ハンコック
出演 / チャールズ・ブロンソン、ホープ・ラング@
チャールズ・ブロンソン主演作品の中で1本だけ選ぶとすればこの作品だ。町のチンピラに愛する妻を殺された建築家ポール・カージーがふとしたきっかけで銃を手にし、夜ごと街へ出かけては法律に頼らず自らの手で都会のダニどもを始末するようになると、世間はこの行為を"Vigilante"として賞賛するが、やがて….。この孤高の一匹狼・悲しき復讐者ポール・カージーは、ブロンソンのまさにハマリ役だった。『ウエスタン』(1968)や『さらば友よ』(1968) での印象的な名演技によりヨーロッパで一気に評価が高まり、「う〜ん、マンダム」のCMで日本でも人気が爆発、ついにハリウッド映画で主演を張るまでになった遅咲きの男が、53歳にしてついに手に入れた代表作である。
ヨーロッパと日本で人気が出てアメリカに帰国してスターになる、このパターンはクリント・イーストウッドと同じである。イーストウッドの代表作『ダーティハリー』(1971)も、病めるアメリカを一匹狼のハリー・キャラハンが銃にものを言わせて独力で裁いていくというもので、『狼よさらば』のポール・カージーと似ている。どちらも5作までシリーズ化されたが、2作目以降はだんだん作品レベルが落ちていくところも同じ。ハリーがはみ出し者とはいえ一応警察組織に属する銃のプロであるのに対して、ポールはあくまでもごく平凡な市民がやむをえず銃を手にするという点が異なりはするが、それは両男優の個性の差が、そのままキャラクター設定に反映された結果であろう。デス・ウィッシュ・シリーズは裏ダーティハリー・シリーズだったのだ!
ただし、ダーティハリー・シリーズはアメリカ国内のみならず日本においてもシリーズものとして意識され、そういう邦題が付けられているが、一方のデス・ウィッシュ・シリーズの日本語題名は公開順に『狼よさらば』、『ロサンゼルス』、『スーパー・マグナム』、『バトルガン・M−16』、『キング・オブ・リベンジ』と、到底シリーズ作とは思えないその場しのぎのタイトルだ。しかも後になるほど仰々しくてチープな題名のインフレ状態! このためにかえって『狼よさらば』は孤高の輝きを失っていないともいえる。ブロンソンの魅力とともに、この映画のすばらしさもいまだに色褪せることはない。(TEXT BY スコットマリー)
A
チャールズ・ブロンソンが演じる男たちの多くは孤独である。家庭を持たず、国家を背負わず、そして周囲に対する淡い期待すらをも捨てている。ささやかな安住が力によって陵辱された時、男は銃をとる。都会では法の番人であるはずの警察には期待しない。流された血には血で報いる、原始的だが根源的な正義に従って行動する。文明社会というジャングルに放たれた暴漢どもを裁く掟はあまりに無力だった。だから己の方程式に従いヤツらを狩るのだ。『狼よさらば』は恐るべき映画である。問答無用でチンピラを葬る主人公を市民は畏怖を込めてヒーローと称えるが、当の本人はヒロイズムに酔ったり、達成感を味わうことはない。初めて殺人を犯した時、男は自分の中に張られた非常線を突破した。この世にチンピラという絶好の獲物がいる限り、狩り続けるしかない。社会正義は関係ない。市民からの称賛も関係ない。キリング・マシンと化した男には殺戮本能のみだけがインプットされている。殺人の快楽を否定しきれない自身に戸惑いながらもがく主人公ポール・カージーと、悪を討つ“自警団”に共鳴する市民との温度差が克明にある。観客は両者の思惑が実はズレて成り立っていることを知りながらも、主人公の行動に感情移入してしまう。厳密にはカージーは正義ではない。むしろ後半は限りなく殺人狂になっている。しかし、冒頭でカージーの家族が賊に襲われる場面と、地下鉄で胸の痛みや恐怖を感じつつトリガーを引く場面を見せつけられた以上、観客はカージーに共鳴せざる得ない。よく練られて構成された映画だと関心する。そして法治国家の大都会に生きながらも原始的な行動とるポール・カージーを演じきれるのは、他者を受け容れない厳しい孤独を背負う顔をした俳優、即ちチャールズ・ブロンソンしかあり得ない。
